「バレンタインディ・キッス 〜恋の記念日〜」
“ゆきる”様からの戴きモノ
2月14日。
それは、日本という国に生まれた男児なら、誰もが知っている日。誰もが、期待と緊張で迎える日。
もちろん、熊本市の尚敬高校に駐在する5121小隊も例外ではなく。
善行は、口元のニヤ気を押さえるのに少し苦労しながら、いつものポーカーフェイスで登校する。
自分のキャラクターとしては、「そんなお菓子会社の策略で一喜一憂、踊らされるなんて下らない」と一笑にふすべきなのだろう。そんな台詞を吐いた年もあった。
しかし今年は違う。
カバンの中には、早朝に届けられた手作り弁当。不器用ながら、最近ようやく形になってきたその製作者は、ポニーテイルの似合う可愛い恋人、芝村舞。
目的のブツは、この弁当の中か。あるいは未だ彼女が隠し持っているか。いずれにしても、それはもうじき、自分のものになる。
こみ上げてくる期待が溢れないよう、口元を緊張させながら、善行は歩を速めた。
「芝村に挨拶はない。行くぞ」
いつものように、校門前で待ち合わせて構内へと入る。
「…さっきから何をニヤけておるのだ。司令がそれでは、隊の士気に関わるぞ」
舞が怪訝そうに善行を横目で睨みつける。しかし善行は気づいていた。
身体から、ほのかに匂う甘い香り。
いくら冷静さを装っても、鼻孔にフタはできない。いやがうえにも期待が高まる。
「いやー、何か今日はいい天気ですねえ。えへへへ。楽しみだなぁ」
「…な、何を考えているッ?!そなた、頭までおかしくなったかッ?!」
懸命に誤魔化そうとしている(善行にはそう見えている)しぐさまで可愛い。
善行の脳内は、すでにピンク色であった。
8時45分。
「いいかお前ら、今日が何の日、って浮かれてんじゃねぇぞっ!戦場に色恋沙汰は必要ねぇっ!
…だがまぁ、一部の人間の士気が異様に下がっても困る。ってことで、これはオレからの栄養補給だ、取っとけ!」
本田が、お徳用ひとくちチョコの袋を盛大にぶちまける。滝川や若宮がさっそく群がっていくのを、善行は余裕の目つきで眺める。
9時30分。
「はい、これいいんちょーのぶん」
ののみが、可愛い包みを善行の手に載せる。
「ありがとうございます」
お礼に、ののみの頭を撫でてやる。
「えへへ。ののみ、みんなのよろこぶかおみるの、とってもうれしいのよ」
小隊男子全員のピンク色の視線が、ののみに突き刺さっている。それぞれの手には、同様の包み。
「でも本当は、お返しにお菓子もらえるのが嬉しいんだよなー。ののみは」
ポケットにたくさんのチョコを溢れさせた瀬戸口がからかうと、ののみはぷうっと頬を膨らませた。
10時30分。
「いつもお世話になっていますので、ほんの気持ちです」
壬生屋が、清楚な包み紙に包まれたチョコを善行に渡す。
その包み紙には、大きく毛筆で「義理」という文字が。
11時30分。
「だいじょうぶ…よ…何の呪いも…かかってないから…」
萌の差し出すチョコは、手作りのようだが、チョコの端から何かよくわからないものが飛び出しているのが気になる。
12時30分。
「さーて実戦組のみなさーん!美少女揃いの整備班からの愛のおすそわけですよー!」
昼休みに入った途端に、新井木が、元気な声を上げて一組教室に飛び込んできた。後から田辺とヨーコ、森に田代が入ってくる。
「あの、実はバイト先からたくさん安くわけてもらいまして、だからそんなにお金かかってないんですよ?」
「それデモ、タダの既製品違いマース!ちゃんと手を加エテ、見た目モ美味しさモ120%アップデース!」
「…こんなんで隊の士気が上がるなんて、ほんと男って単純ですね。まぁこれも行事ですから」
「…俺こういうのガラじゃないんだけどな…ほら、義理なのに誤解されると、面倒じゃんか…」
「はいはい並んで並んでー!あっ、来須センパイだけは、ボクの愛のたっぷり詰まった特製チョコ用意してあるんでー!あ、こらバカゴーグル!それ取るんじゃないっ!」
新井木が、どうでもいいように善行の目の前にチョコの包みを投げてきた。
12時45分。
昼食に誘おうと声をかけた善行に、舞は「すまぬ。今日中に機体を調整しておきたいのだ」と冷たく言い放って、ひとりハンガーへと向かっていった。
一人で弁当を開く善行。中味はいつも通りのおかずだった。
1時30分。2時30分。3時30分。
午後の授業に、舞は出席しなかった。
6時30分。
「今日はちょっとしたお茶請けつきやで」
仕事の合間のコーヒーブレイク。カップを受け取った善行の前に、加藤はチョコの入った箱を差し出す。
「おいしいですね。これなら狩谷くんも喜んでくれますよ」
「…何や、バレてもーた?でもこっちだって失敗作ってわけじゃあらへんで。信じてなぁ」
「あら、おいしそうね。私にも一つ頂戴」
照れながら笑う加藤の横から、原の手が伸びてきてチョコを一つつまんだ。
「男の価値はチョコの数、って誰か言ってたけど、誰かさんはさぞかし男を上げたんでしょうねぇ?」
指についたチョコを舐め取りながら、原が意地悪く善行の方を見て笑う。
「それでもまだ足りない、って言うのなら、私からもあげましょうか?それはもう、鼻血があふれるくらいに、たっぷりと」
かつて、原とつき合っていた頃、バレンタインデーの前日に大喧嘩したことがあった。
翌日に、何食わぬ顔で渡されたハート形のチョコは、中心に何かを突き立てたように大きくひび割れていた。それは未だに食べられないまま、戸棚の奥に仕舞われている。
「…お気持ちだけ受け取っておきます…」
善行はそそくさと仕事机に戻っていった。
7時30分。
仕事時間が終わると、加藤は急ぐように帰宅していった。小隊長室に一人残された善行は、カバンを開けて本日の成果を確認する。
4つの包み+ひとくちチョコ1つに、加藤が置いていった先程の残り物。
この年齢の男性としては、平均的な方か。
それでも、善行はまったく喜べなかった。
あと一つ。これまでのどんなチョコにも勝る大事な一つが、まだ手に入っていない。
いくら世間知らずの芝村の末姫とて、日本人ならこの行事を知らない筈がない。
ましてや、今朝のあの匂い。それが善行の心に確信を生んでいた。
善行は、もう少し待ってみることにした。
それから2時間後。
待ちくたびれて、小隊長室の机でうとうとしていた善行は、鼻孔をくすぐる甘い香りで目を覚ました。
顔を上げると、愛しい人の顔。
「善行。話がある。…行くぞ」
善行の返事も聞かず、舞は善行の腕を取ると倉庫にテレポートした。
舞の身体から漂う甘い香り。「話がある」。倉庫で二人っきり。
善行が頭を働かせなくても、その目的は容易に想像できた。
善行は期待にゆるむ口元を隠しながら、冷静さを装ってみる。
「どうしたんですか?いきなり話がある、なんて」
「…すまぬ…ただとても、大事な話なのだ…」
「わざわざこんな所まで来るなんて、小隊長室ではできない話なんですか?」
「小隊長室は…駄目だ。何時人が来るかもわからぬっ」
舞は何故か顔を真っ赤にして照れている。
「へぇ…人が来たら、困るような話なんですか?」
からかうように言うと、舞は怒ったような焦ったような目でにらみ返す。
「うるさい!」
にやにや笑いをこらえきれない善行と、真っ赤な顔でにらみつける舞。
しばしの沈黙の後に、舞は背後に隠し持っていた包みを善行の胸元に押しつけた。
「…受け取るがいい」
善行の方を正視できずに、視線をそらす舞。
その一連のしぐさ一つひとつが堪らなく可愛くて、すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られたが、善行はそれを頑張って押し止めた。
「私の誕生日は、かなり先だったと思いましたが」
「…意地悪な奴だな、お前は…ッ!これが何か知っておろうにっ!」
舞は、半分涙目になりながら困った顔でにらみつける。とっても可愛い。可愛すぎる。
善行の我慢も限界だった。
「私とて、こんなこと柄ではないことはわかっておるッ、だがバレンタインディというのは…」
その先の言葉を、胸に抱きしめてふさぐ。
舞もそれ以上言葉を続けず、ぎゅっと善行の上腕を握って答える。
「ありがとうございます」
善行は舞の耳元でささやくと、受け取った包みを大事そうにかかげ持った。
嬉しくて嬉しくて、すぐにでもこのチョコを味わいたかった。そしてその後は。
包みから漂うのか、舞の身体から漂うのか、甘い香りが善行の脳をとろかせていた。
壊れものを扱うように丁寧に、その包みを開く。
「……」
善行の思考がしばらく停止した。
確かに、それはチョコレートであった。少なくとも香りは、甘いチョコレートのそれであった。
ただし、その形はいびつさを極め、およそ食品とは思えないような代物になっていた。
「…これは?」
「手作りチョコだ。バレンタインディのチョコは手作りと決まっているのであろう?」
舞が、自信たっぷりに言い放つ。
「私だって苦労したのだぞ。要は融かして固めるだけなのに、どうしてあんなにチョコというのは扱いづらいものなんだろうな。数日前からずいぶんと苦戦したが、これでもまだマシになった方なのだ。今日だって、仕事の合間を縫って調理場で頑張ってみたのだが、何故か市販品にも及ばぬ。まぁ手作りということで、許すがいい」
「あの…舞、さん?」
「何だ」
善行は、おそるおそる訊ねてみた。
「舞さんが、作ったんですよね、これ?」
「勿論だ」
善行は、悩んでいた。
これを口に運ぶべきか、運ばざるべきか。運んで、大丈夫なのか。
口にすることによる自らの命の保証と、口にしないことによって怒り狂った舞に対する命の保証と、どちらの可能性も薄いように善行は感じた。
「何だその目は…ッ!そんなに私がこれを作ったのが信じられないと申すか?!」
沈黙は拒絶の意味に受け取られたらしい。
「見た目はどうあれ、中味はれっきとしたチョコレートだ。芝村の名に賭けて、保証するッ」
「いえそんなわけでは」
善行は腹を括った。ここで食べないことは、間違いなく後の関係の悪化を意味する。
「そんなに心配なら、私が食ってやろう!」
善行の手と舞の手が同時にチョコレート様の物体に伸びる。
それぞれの手が同時に、自分の口にチョコを運ぶ。
しばしの沈黙の後。
同時に、二人は目を見合わせた。
「…砂糖、入れましたか」
「チョコレートは甘い物なのであろう?」
「この、大きな固まりは、」
「クルミだ」
「やたらと固いんですが」
「…チョコとは、そういうものであろう」
「……」
善行は、小さくため息をついた。
今度は善行が舞の手を取ってテレポートする番だった。
食堂兼調理場には誰もいなかったが、そこにはチョコレートの甘い香りが満ちていた。おそらく今日一日で、舞だけではない少女たちの手によって、たくさんの愛情こもったチョコレートがここから生み出されていったのだろう。
「テンパリングって、知ってますか。舞さん?」
調理場の道具を見繕いながら訊ねる善行に、舞は首をかしげた。
「何だそれは。天ぷらを揚げるための道具か何かか?」
善行は吹き出した。
「笑うなっ。私とて知らぬこともあるっ。特に料理関係は…専門外だ…」
そういえば舞は家事技能を持っていなかったな、と善行は思い出した。天才も、相当する知識がなければただの持ち腐れだ。
「テンパリングっていうのは、温度調節のことです」
鍋に水を入れて、火にかける。その一方で、別の鍋に、舞から貰ったチョコを刻んで入れる。
「チョコにはカカオバターが含まれていましてね、これが均一に結晶化しないと、うまくチョコが固まらないんですよ。そのために、微妙な温度管理が必要なんです」
温まった湯を火から下ろし、その中にチョコの入った鍋を浸けてゆっくりとかき混ぜる。
「待て、そのまま火にかけて融かしてはいけないのか?」
舞が、怪訝そうに善行に問いかけた。
「…直火にかけたんですか」
「私の読んだ資料にも、『チョコを湯煎で融かす』とあったが、どのみち加熱すれば融けるのであろう?」
「芝村的な発想ですね…」
善行は呆れながら、チョコと湯と両方に入れた温度計の目盛りをこまめに確認する。
「チョコにはいろいろな成分が入っている分、かなり気難しいところがあるんですよ。きちんとした温度で、丁寧にかき混ぜてやらないと、すぐにへそを曲げてしまう」
誰かさんみたいにね、と小さくつぶやくと、聞こえたのか、舞が拗ねたような目を向けた。
「45℃をキープして、チョコが融けたら一気に冷やす」
作業の合間に用意しておいた氷水に鍋を移し、さらにかき混ぜ続ける。善行の目は温度計に向けられたままだ。
「これで固めるのか?」
「いえ、まだです」
舞の質問を受け流しながら、善行は粘りとツヤを増した鍋を再び湯の中に浸ける。
「せっかく固まってきたのに、また融かしてしまうのか?」
「ここがポイントなんです…32℃、よし、OK」
もはや善行の集中は、目の前の鍋と温度計にのみ注がれている。何だかとても楽しそうだ。
「温度は、これ以上でもこれ以下でも駄目なんです。でも、もう少しで完成ですよ…舞さん?」
善行が顔を上げた時、舞は目を点にしてこめかみを指で押さえていた。
「どうしました?」
「…やはり、私には家事は向かぬ。どうしてこんなに面倒なことをみんな平然とできるのか…
それに善行、そなたこそ、こんな菓子作りの趣味があるなんて、知らなかったぞ…」
「私は、たまたま知っていただけですよ」
それでも、これだけのことは舞にとっては魔法のようにしか見えなかった。
善行は、そのまま手を休めずに、2等分したチョコの片方に温めた生クリームを混ぜて練り、小さく丸めてまとめた。そこにもう半分のチョコをまぶして固める。
調理場に来て1時間もしないうちに、奇妙なチョコレート色の物体は、見事なトリュフチョコに姿を変えていた。
善行は調理場の時計を見上げた。午後11時。
「やれやれ、何とか今日に間に合いましたね」
満足そうに善行がつぶやく。しかし、舞は憮然とした表情のままチョコと善行を見ている。
「何だか納得がいかぬ…そもそも、バレンタインディというのは、女性が男性にチョコを贈るものだったはず。いつのまにか逆転しているではないかっ」
舞の心理を要約すると、くやしい、ということらしい。善行は小さく笑うと、舞の目の前に出来たてのチョコを差し出した。
「まぁいいじゃないですか。ほら、食べてみて下さい」
舞はまだ不本意そうに善行を上目遣いで見ていたが、その甘い香りに負けてか、受け取ったチョコをつまんで口に運んだ。
「…悪くない」
「つまり、おいしい、ってことですね」
「…そうとも言う」
善行は満面の笑顔で微笑んだ。
「そもそもこのチョコは、舞さんが私にチョコをくれなければ存在しなかった訳で。だからこのチョコは、舞さんが私にくれたようなものなんですよ。それに、もともとこのチョコには、舞さんが一生懸命苦労して作ってくれた気持ちがこもってる。それがあるからこそ、こんなにもおいしいんです、きっと」
「それでも、やはりそなたが作ったことに変わりは…」
それ以上言葉が出ないように、口をチョコレートで塞ぐ。
「いいんです。私はね、本当に嬉しいんですよ。嬉しすぎて、一人で味わうなんて勿体ない」
そう言いながら、善行は自分の口にもチョコレートを運ぶ。
次の瞬間、善行の動きが止まった。
「どうした?」
「…ああ、そういえば大事なかくし味を忘れていました」
善行は、小さくつぶやくと、怪訝そうな表情の舞に向かって顔を寄せた。
それは、舞がこれまでに味わったことのない、甘くとろけるようなキスだった。
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